双極症(双極性障害, Bipolar Disorder)は、躁状態と抑うつ状態という対照的な気分エピソードを繰り返す精神疾患 ですが、その背景には脳の構造・機能・神経伝達物質の変調をはじめ、遺伝的要因や環境要因など複数の要素が絡み合っていると考えられています。ここでは、双極症に関連する主な脳科学的視点について概観します。
1. 脳構造の変化
前頭前野(Prefrontal Cortex)
- 役割
注意制御・意思決定・感情調整など、認知機能と情動調整の両面で重要な領域。 - 双極症との関連
- 前頭前野の灰白質容積の変化(萎縮や体積減少)が報告されている研究がある。
- 特に、背外側前頭前野(DLPFC)や腹内側前頭前野(vmPFC)は気分調整に深く関わり、これらの機能不全が過剰な感情反応や衝動性につながる可能性が指摘されている。
扁桃体(Amygdala)
- 役割
恐怖や不安などの情動反応・報酬系にも関わる。 - 双極症との関連
- 躁状態や抑うつ状態の両方で、扁桃体の過活動や機能的結合の異常がみられる研究がある。
- 感情刺激に対して過敏に反応したり、抑制しづらくなる一因である可能性。
海馬(Hippocampus)
- 役割
記憶形成やストレス反応との関連が深い。 - 双極症との関連
- うつ病と同様に、慢性的なストレスやエピソードの再発により容積が変化(減少)しやすいとする報告がある。
- 気分エピソードの繰り返しが海馬への影響を蓄積させる可能性も示唆されている。
前帯状皮質(Anterior Cingulate Cortex; ACC)
- 役割
情動調整や注意・認知制御の機能を担う。 - 双極症との関連
- ACCの活動や構造の異常が、気分の急激な変化や注意制御の困難などに関わるとみられる。
2. 脳機能ネットワークの観点
フロント-リムビック回路(前頭前野-辺縁系回路)
- 前頭前野と扁桃体、海馬などを含む辺縁系領域との結合が、気分や情動制御の中心的ネットワークと考えられています。
- 双極症では、このネットワークのバランスや機能的結合が不安定になりやすく、その結果として「感情の振れ幅が大きい」「衝動的行動が起きやすい」といった特徴が現れると考えられています。
デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)
- 安静時や自己関連思考に関わるネットワーク(内側前頭前野、後部帯状皮質など)。
- 双極症の患者では、DMNの異常な活動パターンや他ネットワークとの切り替えの問題が研究で示唆されています。例えば、抑うつエピソード中にネガティブな自己関連思考にとらわれやすくなることなどが関連している可能性があると考えられます。
報酬系ネットワーク
- 側坐核(NAcc)や腹側被蓋野(VTA)などのドーパミン作動性経路を含む報酬系ネットワーク。
- 双極症の躁状態では、「快感・報酬」に対する感受性が過剰になり、リスク行動や衝動的行為を招く要因となる場合があります。
3. 神経伝達物質の異常
ドーパミン(Dopamine)
- 双極症の躁状態ではドーパミン機能が亢進し、過剰な快感やエネルギー感を生む一因になるという仮説があります。
- 逆に抑うつ状態では相対的にドーパミン機能が低下しているとも考えられます。
セロトニン(Serotonin)
- 抑うつ状態の発症とセロトニン不足の関連は以前から指摘されていますが、双極症においてもセロトニン系の調整不全が気分の急激な変動の一因となる可能性が考えられています。
ノルアドレナリン(Norepinephrine)
- ストレスや覚醒レベルの制御にかかわる神経伝達物質。双極症の病態では、ノルアドレナリンの分泌・受容体感受性の変化がエネルギッシュな躁状態や、意欲低下の抑うつ状態と関連している可能性があります。
4. 遺伝的要因とエピジェネティクス
- 双極症は遺伝要因が強い精神疾患の一つとされ、家族内発症リスクの高さが知られています。
- 双極症の発症に関連する遺伝子多型(リチウム反応性など)も多数報告されていますが、現時点では特定の遺伝子が直接的に発症を決定するわけではなく、多遺伝子要因 + 環境要因 という複合的な仕組みが考えられます。
- ストレスや生活習慣、薬物治療などの環境要因が遺伝子の発現様式(エピジェネティクス)に影響を与え、双極症の発症や再発・症状の重さに関わる可能性も示唆されています。
5. ストレス応答系(HPA軸)との関連
- ストレス応答に関わる視床下部-下垂体-副腎皮質系(HPA軸) が乱れると、コルチゾールなどのストレスホルモンが過剰に分泌されることがあり、脳構造(海馬など)や神経伝達物質のバランスにも影響します。
- うつ病と同様に、双極症においてもHPA軸の機能異常が指摘され、特に抑うつ相への移行や再発リスクと結びついている可能性が検討されています。
6. 神経可塑性と炎症仮説
- 神経可塑性(Neuroplasticity)
- 脳内のシナプス結合やニューロンの可塑性が、気分の安定・記憶や学習プロセスに深く関与。
- 再発を繰り返すと可塑性が低下し、気分エピソードに対する耐性が弱まるという見方があります。
- 炎症仮説
- 近年、精神疾患と炎症性サイトカイン(免疫系物質)との関連が注目されており、双極症においても慢性的に炎症マーカーが上昇していることが報告されています。
- 炎症は神経可塑性や神経伝達物質バランスに影響を与える可能性があり、症状増悪や再発に関わるとする仮説も存在します。
7. 治療と脳への影響
- 気分安定薬(リチウム、バルプロ酸など)
- リチウムは、神経可塑性やシナプス機能を調整する因子(BDNFなど)に影響を与え、脳構造の保護作用を持つとの研究もあります。
- 長期的に用いることで海馬や前頭前野などの神経萎縮を抑制する可能性が報告されています。
- 抗うつ薬や抗精神病薬
- セロトニン・ノルアドレナリン・ドーパミンなどの神経伝達物質バランスを調整し、過剰な興奮や抑制を緩和する。
- 精神療法(認知行動療法、対人関係療法など)
- 脳科学的視点からは、これらの療法を通じて思考・感情調整のパターンを学ぶことが、脳のネットワーク結合パターンや認知柔軟性に変化をもたらす可能性が考えられる。
まとめ
双極症の脳科学研究は、前頭前野-辺縁系回路の異常や神経伝達物質のアンバランスに加えて、遺伝・環境・エピジェネティクスなどが複合的に影響し合う複雑なメカニズムを解明しようとしています。
構造や機能面での変化(灰白質や白質の容積変化、ネットワーク結合の異常)、ストレス応答や炎症の関与など、多岐にわたる要因が躁状態・抑うつ状態の発現や移行を支えていると考えられます。
脳科学の知見を基に、リチウムなどの薬物治療による神経保護効果や新しい治療法の開発(炎症を抑える薬剤、rTMSなどの脳刺激法)が今後さらに進んでいくことが期待されています。同時に、生活習慣や心理社会的支援を含む総合的なアプローチによって、症状の再発防止や長期的な脳機能の維持・改善を目指すことが重要とされています。