リチウムは、主に双極性障害(躁うつ病)の治療に用いられる代表的な気分安定薬です。脳科学(神経科学)の観点からは、リチウムが脳内の神経細胞やシグナル伝達経路、可塑性(可変性)などに多彩な影響を及ぼすことで、感情や行動を安定させる働きをもたらすと考えられています。しかし、リチウムの正確な作用機序はなお完全には解明されていない部分が多く、複数の仮説が提唱されています。以下に主な知見をまとめます。
1. セカンドメッセンジャー(細胞内シグナル伝達経路)への影響
1) イノシトールモノホスファターゼ(IMPase)の阻害
- リチウムは、ホスファチジルイノシトール(PI)サイクルに関わるイノシトールモノホスファターゼを阻害し、イノシトールやそのリン酸化物(IP3など)の再利用を妨げます。
- IP3(イノシトール三リン酸)は、細胞内カルシウムイオン濃度を調節し、神経伝達に重要な役割を果たしています。
- リチウムの「イノシトール枯渇仮説」によれば、この経路を抑制することで神経の興奮性バランスを安定させ、躁状態を抑えたり気分変動を安定化させる可能性が示唆されています。
2) グリコーゲンシンターゼキナーゼ3(GSK-3)の阻害
- リチウムはGSK-3(glycogen synthase kinase 3)という酵素を直接・間接的に阻害すると知られています。
- GSK-3は、細胞の成長や遺伝子発現、シナプス機能などを調節する重要なシグナル伝達分子です。
- リチウムによってGSK-3が抑制されると、神経細胞の可塑性や生存率が高まり、神経保護効果や気分安定効果に寄与すると考えられています。
2. 神経伝達物質(モノアミン、GABA、グルタミン酸)への影響
- モノアミン系(セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンなど)
リチウムは、セロトニン作動性伝達を促進する一方で、過剰なドーパミン放出を抑えるなど、モノアミン系のバランスを調整しているという報告があります。 - GABA(抑制性伝達物質)
リチウムがGABA作動性システムの機能を高め、抑制性のニューロン活動を強化することで、過度な興奮を抑える可能性があると示唆されています。 - グルタミン酸(興奮性伝達物質)
興奮性伝達物質のグルタミン酸放出をコントロールすることで、神経細胞の過剰興奮を防ぎ、神経毒性を軽減する役割を担うとも言われています。
3. 神経可塑性・神経保護効果
- BDNF(脳由来神経栄養因子)の増加
リチウム投与によりBDNFが上昇し、神経細胞の生存やシナプス形成を促進する報告がいくつもあります。BDNFはストレスなどで減少しやすいため、リチウムがBDNFを増加させることで、脳のストレス耐性や修復力を高め、気分安定につながると考えられます。 - 抗アポトーシス(細胞死抑制)作用
リチウムはGSK-3の阻害などを通じてアポトーシス(プログラム細胞死)を抑制する作用があり、脳神経の損傷や萎縮を防ぐ神経保護効果に寄与する可能性があります。 - ミトコンドリア機能のサポート
一部の研究では、リチウムが細胞エネルギー代謝(ミトコンドリア機能)の改善に関与していることも指摘されています。脳細胞のエネルギー代謝が改善すると、ストレスに対する抵抗力や細胞の機能維持が向上します。
4. 概日リズム(サーカディアンリズム)への影響
- リチウムが概日リズムを調整する時計遺伝子(Clock、Per、Cryなど)の発現や、視交叉上核(SCN)のシグナル伝達に何らかの影響を及ぼしているという報告があります。
- 双極性障害において、睡眠・覚醒のリズムの乱れが病状の悪化やエピソードのトリガーになることが多く、リチウムがリズム安定に寄与して症状コントロールを助ける可能性が考えられています。
5. 臨床的効果とその背景
- 気分の安定化: 躁状態の抑制だけでなく、うつ状態への移行も防ぐ「気分安定薬」としての特性があります。これは脳内神経伝達物質バランス、神経可塑性、シグナル伝達経路の多面的な調整によるものと推察されます。
- 自殺リスクの低減: リチウムを継続的に服用している患者は、自殺リスクが低下するというエビデンスがあり、長期予後の改善にも寄与するとみられています。
まとめ
リチウムは、脳内のシグナル伝達経路(特にイノシトールリン脂質経路やGSK-3経路)を調整し、神経細胞の可塑性や生存を支える多面的な作用を通じて、気分を安定化させる薬剤です。さらに、モノアミンやGABA、グルタミン酸といった神経伝達物質のバランスを修正し、BDNFの増加やアポトーシス抑制など神経保護にも貢献すると考えられています。加えて、概日リズム(サーカディアンリズム)の安定化にも寄与する可能性が指摘されており、双極性障害をはじめとする気分障害の治療に幅広く用いられてきました。
とはいえ、リチウムの効果を100%単一のメカニズムで説明することは難しく、多層的・複合的な作用が合わさって臨床的な気分安定効果を生み出していると捉えられます。引き続き、神経科学・分子生物学の発展に伴って、リチウムの作用機序のさらなる解明が期待されています。