映画『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督、2023)は、原爆開発を主導した理論物理学者ロバート・オッペンハイマーの内面と葛藤を描いています。この作品を病跡学(パトグラフィー)の観点から考察すると、オッペンハイマーという実在の人物の天才性と精神的脆弱さの交錯が浮かび上がります。
◾️オッペンハイマーの病跡学的分析
①【天才と神経症】
- オッペンハイマーは若い頃から極度の知的才能を発揮していた一方で、うつ傾向・自責感・孤独感を抱えていました。
- 学生時代には精神的に不安定で、毒物を使った復讐未遂事件の記録(ルームメイトへの恨みからリンゴに毒を盛ったとされる)もあり、これは境界性パーソナリティ的特徴や反応性の強さを示す逸話とされます。
②【スプリッティング(二分割思考)と罪責感】
- 原爆開発をめぐる自己正当化と後悔との間で、**強いスプリット(二項対立)**が見られます。
- 成功した科学的成果(原爆完成)と、それに伴う倫理的・人道的罪悪感の間で激しい内的対立(内的スプリット)が起こり、後年には精神的疲弊や自罰傾向も指摘されます。
③【自我理想と現実乖離】
- 科学者としての理想=「人類の進歩に貢献したい」という動機があった一方、現実には大量殺戮を可能にする兵器の開発となったことにより、自己理想の崩壊とアイデンティティクライシスが生じます。
- これはうつ病性人格構造やナルシシズムの崩壊過程として解釈可能です。
④【集団と個人の葛藤】
- 科学という「公共善」の名のもとに個人の倫理が抑圧された体験は、強迫的忠誠と自己否定を招き、従属的アイデンティティと「自分が自分でない」感覚を生みます。
◾️病跡学的キーワードでまとめると:
観点 | 病跡学的理解 |
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知性と精神病理 | 天才性と神経症傾向はしばしば共存する(例:シューマン、ゴッホ) |
罪責感と自罰性 | 原爆投下の結果を引き受けたことで、自罰的な自己認識が強まった |
自己理想の崩壊 | 自らの創造物(原爆)が理想と正反対の用途に使われたことでアイデンティティが揺らいだ |
集団内圧力と個の苦悩 | 国家の意思と個人の倫理との乖離により、精神的分裂が加速 |
◾️映画『オッペンハイマー』の演出と病跡学的視点
- ノーラン監督は、オッペンハイマーの**「内部世界」=心理的爆発(罪責感・後悔・不安)と、「外部世界」=原爆実験の現実と政治的弾圧を対比的に描いており、これは病跡学における内的葛藤の可視化**として非常に示唆的です。
