「自己愛性パーソナリティ障害(Narcissistic personality disorder. NPD)」とは、「ありのままの自分」を愛することができず、「自分は優れていて素晴らしく特別で偉大な存在でなければならない」と思い込むパーソナリティの障害です。
DSM.Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, 5th Edition.
301.81「自己愛性パーソナリティ障害(Narcissistic personality disorder. NPD)」
「誇大性(空想または行動における)、賛美されたい欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される」。
1.自分が重要であるという誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)
2.限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
3.自分が “特別” であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達(または団体)だけが理解しうる、または関係があるべきだ、と信じている。
4.過剰な賛美を求める。
5.特権意識(つまり、特別有利な取り計らい、または自分が期待すれば相手が自動的に従うことを理由もなく期待する)
6.対人関係で相手を不当に利用する(すなわち、自分自身の目的を達成するために他人を利用する)。
7.共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
8.しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
9.尊大で傲慢な行動、または態度
Schneider (1923) は上記の基礎となる概念として「精神病質人格」を定義しました。それは下記の通りです。
「人格異常の中で、その異常性に自ら悩むか、社会を悩ますもの」として10類型に分類しました。現代の自己愛性パーソナリティー障害に相当するのは下記でしょう。
「顕示型:自分を実際以上にみせかけるもので、いわゆるヒステリー人格、演技性人格障害に相当する。嘘をついたり芝居をして、他人も自分も欺くが、物質的な利益より役割そのものに意味がある。虚言者と欺瞞者、空想虚言、虚偽性障害、ミュンヒハウゼン症候群の一部も含まれる。自分をより以上に見せかけようとする欲動は顕示欲である」
すなわち、「思い描いている自分」と「取り柄のない自分」という二つの偽りの自己の間で揺れ動いています。本来の「等身大の自分」は欠如しています。思い描いた自分である限り、社会的には何不自由なく暮らしています。NPDの方々が受診するのは「現実が思い通りにいかなくなり」「取り柄のない自分」になった時です。具体的には、1.抑うつ、2.怒り、3.ひきこもり、4.強迫、を主訴にして受診します。
「自己愛性」という言葉と逆に、NPDの方々は「本当の自分」を愛せないという深い病理を抱いています。「等身大の自分」を受け容れられず、常に自分以上の自分でなければならないという「自我同一性(アイデンティティ)の障害」を生じています。
これは幼児期からの「深い自己不信」と「無価値の感覚」に根差しており、「自分がそのままでは愛されない」という条件付けの愛情が抑うつを作り出し、それを乗り越えるために、誇大的・万能的・理想的な「偽りの自己」を作り続けてきたと理解されます。
偽りの自己は、物質による幼児的万能感の過剰供給、共感性の乏しい親、自己を無力化する持続的侵襲、早過ぎる自立などの養育環境が関係しています。NPDの方々は甘えを早期に甘えを断念し、自尊心を獲得する構図の中で、深い「自己不信」と「外的価値観」に重きをおく病理的な自尊心などがセットになり発育します。家族の病理は親の自己愛的欲望の強さによります。「親の欲、親の期待」が病因として協力に働いていたのです。いわゆる「世代間伝達」と言われる病理現象です。
NPDの方々は「手ごたえのある大人」を求めています。具体的には、優しくて、強くて、自分を分かってくれる人物です。治療者はいわば生き様を問われることになります。治療関係ができると、NPDの方々は鎧(よろい)の下に、柔らかい傷つきやすい心を表します。本質は自己陶酔などではなく、自分は無力で価値がなく、何の取り柄もない無意味な存在であるという「劣等感」です。
そこで治療者は、「『あるがまま』の自分を愛せないことが病理の中核である」と伝えます。そして、「自分が自分であればよい、自分は自分以上でないし、自分以下でもないのだから」という人間の基本原理が成立することを目標とします。これはまさに、日本の伝統的な精神療法である「森田療法」に通ずる考え方と言えるでしょう。
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参照:精神科ニューアプローチ5 パーソナリティ障害 ほか