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精神医学

「精神病理学」とは

人間の精神病理を心理学的に明らかにする学問です。

精神症候学;精神的な異常をとらえます。
疾患分類学;精神疾患の成立を考えます。

精神症候学は、患者さんの語る体験から取り出されます。こころの内面は外見・表情・態度に表れますが、詳しく知るには、患者さんに語っていただかなければなりません。それには、患者さんが自由にこころの内面を話して下さることが重要です。「これまで自分ではまとめらられなかったことを話すことができた」とおっしゃっていただけると幸いです。心理師・看護師・医師等は、「黒子(くろこ)」となり、患者さんが診察室・診療所の「主人公」となり、自由に話して下さることが理想なのです。

そして、生物・心理・社会学的に病理を診断し、治療の方針を立てます。身体医学と同様、精神医学も診断なくして治療できません。したがって診断とは「大海原へ帆を上げること」と言えます。

Schneider, K「臨床精神病理学」(1960)

精神病は本来の人格から理解できない。分裂病でも循環病でも、すでに記述した症状によって、正常または異常な人格発展の限界を越える。しかし精神病は、人格の特徴によって広範囲に形成され、そのほか、人格の動能(欲動)や評価や、あこがれや、希望や、恐怖や、またその運命や体験からもその内容を受け取る。幻覚や妄想着想があるということは人格からは了解されないが、どんな幻覚であるか、どんな妄想着想があるかということは、人格から了解される。

Binswanger, L 「思い上がり、ひねくれ、わざとらしさ」(1956)

横の広がりを投企し、またそういう広がりのなかへ歩むばかりでなく、高さを投企し、また高いところへとのぼる存在として、人間の現存在は本質的に思い上がるという可能性によってとりまかれている……分裂病性の世界内存在では……人間学的な不均衡はもはや、広がりとか決断の高さを越えた単なる想像上の飛翔といった不釣合いな優勢に基づくのではなく、経験の広がりを越えた決断の高さの不釣合いな優勢に基づいている。躁病者とは反対に、分裂性の精神病質者や精神分裂病者が思い上がるのは、彼らがまさに気分楽天主義の「空中にただよう高さ」へと運び上げられるのではなく、経験を顧慮せずにひとり「人間的問題性の梯子」のある特定の段へとよじのぼり、そこで立ち止まってしまうというところにある……思い上がりは個々の決断の絶対化を意味する。しかしそのような絶対化がまたしてもはじめて可能なのは、現存在が絶望的なまでに愛と友情の故郷と永遠から追放されている場合であり……他者との交わりや交渉から孤立し、またその中ではじめて可能な持続的な促しや教訓から孤立している場合であり、また現存在が自分自身との単なる交わりや交渉へと成り下がって、ついにはこれもメドゥ―サの頭、つまり妄想へと硬化した問題、理想あるいは不安の無のうえでいたずらに硬直したまま走りしんでしまうような場合なのである。

Conrad, K「分裂病のはじまり」(1958)
詳細な体験記述・体験分析という広大な領域は、今までに1度も精神医学によって十分利用されたことがなかった……私なりの分析の試みを「ゲシュタルト分析」と名付けたい。体験されたものはすべてゲシュタルトをもったものであり、現象として現れた事実を分析することは、とりもなおさずゲシュタルト過程の分析であるからである……この場合、患者のごく初期の幼年時代からの全生活史上の問題に対して、膨大な分析の努力をする必要はない。それらは現存在分析のほうの要請である。現存在分析の関心事とゲシュタルト分析の関心事との関係は、比喩をつかって分かりやすくいえば、JS・バッハの伝記の関心事と音楽科学の関心事の関係と同じである。バッハ伝記の関心は、彼の作品の1つ、たとえば「フーガの技法」を、バッハの世界投企全体のテーマから、彼の生活史と信仰から、彼の息子との関係、時代精神から了解しようとすることにある。音楽科学の関心事は、作品をもっぱらその構成に関して、多節性の主題とその加工から、そして対位法と運声法に関して分析することにある……どちらが優先するということではなくて、むしろ相互に補完しあう関係にあるだろう。しかし後者の対象つまりフーガが、前者の対象つまり1回性で反復不能のバッハの人生よりも、科学的分析になじみやすいのは当然である。ここで妄想のゲシュタルト分析は、妄想患者の現存在分析に先行させてよいのではないかという問題が出てくるだろう。

Rumke, HC「分裂病の核症状と Praecox-gefühl 」(1941)

現行の症状リストのどこにも入らないが、ありとあらゆる症状の中に浸透しているもの……この定義不能でありながらあらゆる症状の周囲に漂っているものこそ Praecox-gefühl の発生源である……それは、ごく短時間の面接でも面接者の感情移入の手が短すぎて相手に届かぬと面接者が自身が認知することである。その際こちらが相手のいま抱いている感情に感情移入できるかどうかが問題なのではなく、相手の人格全体との対人的接触に至らないことが問題なのである。そうさせているものは明らかに病者の中にある何ものかだ。障害されているのは、傍らにいる人間や周囲にいるへのこころ寄せである……人間をひとりだけ単離したりせず、他の人々の間にある状態で眺める時初めて、人間の最も基本的な特性である、自分以外のものへの対人接触衝動が存在する……それはもっぱら本能的に起こる。われわれは皆この本能を備えているが、大体この本能が円滑に作動している間はわれわれ自身これを意識しない。円滑に作動しなくなると直接肌身にこの衝動が感得される。この本能を私は対人接触本能 instinct of approach と名付けたい。あるいはこの本能の減弱こそ分裂病のもっとも基本的な症状かもしれない。

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