LINE を使った受診日時のお知らせを一時的に休止しています。詳しくはこちらをご覧ください。

東京・銀座の心療内科・精神科・メンタルクリニック

オンライン
予約
お問い合わせ
アクセス
診療時間
精神医学

「偏見・差別」とは

「破壊」

島崎藤村の長編小説。

誰よりも早く自我に目覚めた者の悲しみ、
という藤村自身の苦悩を主人公に仮託しつつ、社会的なテーマを追求した作品。

島崎 藤村(1872年3月25日-1943年8月22日)、詩人・小説家。信州木曾の中山道馬籠生まれ。 1881年上京。泰明小学校、三田英学校(旧・慶應義塾分校、現・錦城学園高等学校・前身)、共立学校(現・開成高校・前身)など予備校を経て、明治学院本科(明治学院大学・前身)にて学んだ。

明治後期、信州小諸城下の被差別部落に生まれた「主人公・瀬川丑松」は「その生い立ちと身分を隠して生きよ」と父より戒めを受け育った。その戒めを頑なに守り成人、小学校教員となった丑松だったが、同じく被差別部落に生まれた解放運動家「猪子蓮太郎」を慕うようになる。丑松は、猪子にならば自らの出生を打ち明けたいと思い、口まで出掛かかることもあるが、その思いは揺れた。やがて、小学校で丑松が被差別部落出身であるとの噂が流れ、さらに猪子が壮絶な死を遂げる。その衝撃の激しさか、同僚からの猜疑か、丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破り、その素性を打ち明ける。そして丑松はアメリカのテキサスでの事業を持ちかけられ、ひとまず東京へと旅立つ。

「部落問題」とは

日本社会の歴史において形成された「身分階層構造」に基づく差別により、国民一部が経済・社会・文化的に低位の状態におかれ、現代においても著しく基本的人権を侵害され、近代社会の原理としても、何人にも保障されている権利・自由のない深刻・重大な社会問題です。

日本史上、古代にも差別された人々がいたとされているが、中世・平安時代はなくなりました。その代わり「人の死や血」に対し「穢れ(けがれ)」を覚えるようになり、さらに「人や動物の死や血」に触れる職業に従事する人々に対する「偏見」が生ずるようになりました。

戦国時代が終わり、豊臣秀吉は支配体制を強化するため、検地や刀狩りを行い「身分統制令」を施行。
徳川幕府では、全人口7%に過ぎない武士による「幕藩体制」を確立するため、身分制度を強めた。その手段とし、人々の中にあった「穢れ」に対する偏見を利用、「士農工商」そして「穢多」「非人」を設けました。

明治政府は「近代国家」のため、封建制度を廃止、1869年、公家・大名を「華族」、武士を「士族」、農民・町民を「平民」と定めました。そして、1871年、被差別身分を廃止するため「解放令」を出しました。

しかし、1872年、兵役と納税のため設けられた「壬甲戸籍」には差別呼称が残っており、自由閲覧できることから、日常生活には「差別」が残りました。

1918年、米価暴騰により発生した「米騒動」に差別されていた人々が多く参加したことを契機に、差別をなくそうする気運が高まった。そして「大正デモクラシー」と相まり、「水平社」と呼ばれる、差別解消のための団体が生まれました。

1945年、第二次世界大戦終了、日本国憲法「基本的人権の尊重」が規定されたが、差別は続いきました。1946年「部落解放同盟」、1960年「全日本同和会」が結成、1961年「同和対策審議会」、1965年「同和対策審議会答申」が政府下に設置されました。

心理的差別;人々の意識・無意識に存在し、時に言葉・文字・行動により表される。
実態的差別;住宅・教育・就労・結婚など、生活・人生の実態において生ずる。

「偏見」「差別」とは

「偏見」とは、ある種の事物、ことに特定の集団や個人に対して、客観的な事実の裏づけや合理的根拠が認められないのに人々が示す非好意的な偏った態度、信念ないし意見のこと。「妄想」は個人的、「了解不能」な内容のことが多いですが、「偏見」は集団的で、「了解可能」です。

「偏見」は、特定の人々や集団を不当に低く評価し、さらに排除することもある「差別」という言動へ結びつきやすいです。偏見や差別と関連する「スティグマ Stigma」とは、他者や集団から押し付けられた、ぬぐいがたいほどの否定的・価値観、社会的「烙印」のことです。「セルフ・スティグマ」とは、本人が自分に対し、否定的な価値観を抱くこと、「自己肯定感・自尊心の低下・うつ状態」と強く相関しています。

これらを少しでも軽減・解消するには、客観的な事実をよく知る、特定の集団や個人と実際に関わることが必要です。

この記事は参考になりましたか?

関連記事

PAGE TOP