窃盗症(6C71/ICD-11)
聡実(さとみ)36歳は某・有名私立大学文学部・准教授である。まだ「男尊女卑」の残る学問の世界で、パワハラやセクハラに耐えながら、ここまで頑張ってきた。幼少期から成績優秀だった彼女は、専業主婦の母親に、これからの時代は女性も教養や資格をと言われ続け、某・有名私立女子中高を経て、某・有名国立大学文学部卒業。その後も、就職せず大学院へ進学し、フランス文学を研究した。高校・大学時代はフランスへ計2-3年間留学、日本語・英語・フランス語、さらにドイツ語をも駆使する Multi-Lingual な才女となった。
しかし、彼女は「幸福」とはいえなかった、否、感じられなかった。最近、話題となっている「幸福度」という尺度で測ってみても「幸福」ではなかった。彼女の外見は地味であるが、容姿は整っており、美人の部類に入った。学生時代、複数の男性から言い寄られ、交際したこともあった。しかし、交際は数か月間で終わり、数年間、続くことはなかった。
どうしてか。彼女は「愛される」ことはできても、「愛する」ことができなかったのである。おそらく母親から学業第一とされ、「知育」は十分に受けられたが、「情育」に不足していたからかもしれない。対照的に、2歳下の弟;真一は天真爛漫に育った。成績不良、素行も良いと言えず、母親はいつも教師に呼び出されていたが、「できの悪い子どもほど可愛い」からか、男児だったからか、母親の愛情を十分に浴びていた。なお、会社員の父親は優しかったけれど、いつも仕事に忙しく、家庭不在が多かった。
聡美は32歳時、妻子ある研究者の先輩と不倫関係に陥った。先輩の誘いに乗った聡美であったが、30歳過ぎて独身であることに寂しさと恥ずかしさを覚えていた。関係はこれまでより長い2-3年に渡った。先輩に求められるままに愛され、愛する「振り」をした。「振り」をしたというのは、聡美は「愛し方」が分からなかったに過ぎない。
終焉は突然に訪れた。先輩から求められるまま、愛された結果、彼女は妊娠した。それにもかかわらず、先輩の態度は冷たかった。妻子・家庭ある自分に、責任は取れないと告げられた。彼女は言われるがまま、婦人科を受診、堕胎手術を受けた。それ以来、先輩とは疎遠になり、自然消滅を迎えた。虚しかった。
もう二度と恋愛などするまいと心に誓った聡美であったが、言語を探求するほど、人間の知性と情欲との矛盾を思い知った。途中、専門を文学から言語学へと転向しようとも考えたが、それは自分から逃げるように感じられた。34歳を迎えた彼女は結局、人間の情欲と対峙しようと決意した。フランスに限らず、世界中の恋愛小説に精通しようと、読みあさった。大学の図書館では飽き足らず、自費で希少な作品も買い求めた。
しかし、薄給だった大学の給与では、高額な洋書を買い集めることは不可能だった。当然、大学の図書館へ行けば、無償で貸与されるが、彼女は「所有」にこだわった。洋書を所有することにより、知識や経験を入手できる「錯覚」に陥っていた。預金が底を突いた彼女は、ある日、有名書店において、無意識に「洋書」を鞄に入れていた。有名書店であったが、洋書コーナーには店員は皆無で、何のおとがめもなかった。
3-4か月後・3-4冊目を鞄に入れた時、彼女は店員に呼び止められた。1冊1万円以上する洋書が紛失することに不信を抱いた書店側が異例ながら、防犯カメラを設置していた。そして、マークされていた彼女が入店するや、彼女の行動は店員の注視されることころとなり、現行犯・逮捕となった。彼女は全てを認め、手つかずだった書籍を返品、慰謝料も支払い、釈放された。書店は警察への被害届を撤回、彼女の波ながらの謝罪と生い立ちの一部を聞き、同情を禁じえなかった。その後、彼女は自ら、地方の小さな大学へ一身上の都合として転勤、粛々と研究を継続している・・・
「窃盗症」とは(DSM-5)、
A. 個人的に用いるためでもなく、またはその金銭的価値のためでもなく、物を盗ろうとする衝動に抵抗できなくなることが繰り返される。
B. 窃盗におよぶ直前の緊張の高まり。
C. 窃盗におよんだ時の快感、満足、または解放感。
D. その盗みは、怒りまたは報復を表現するためのものではなく、妄想または幻覚への反応でもない。
E. その盗みは、素行症、躁病エピソード、または反社会性パーソナリティ障害ではうまく説明されない。
すなわち、物を盗りたい衝動や欲求を制御できず、繰り返し窃盗をしてやめることのできない脳と心の病。上記の通り、金銭・経済的な目的でなく、「窃盗」という反社会的行為に、強い快感を覚え、繰り返し行われる。ある種の「プロセス依存症」と考えられており、病因として、生物的(遺伝的)・心理社会的(生育歴)の双方が複雑に影響していると考えられている。
「愛情遮断症」とは、
幼少期から、発育・発達に必要な愛情を十分、受けることができなかった結果、生じる、幼少期、そして思春期・青年期以降まで遷延する症状。養育者(両親)の双方または片方が精神的に不安定のため、養育が不十分である際、生じやすい。この結果、子どもは幼少期から、思春期・青年期以降も、情緒不安定になったり、感情表出が乏しくなったりして、集団・社会適応に困難を生ずる。